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井原市の歴史をのぞいてみよう!

井原市(いばらし)ゆかりの偉人(いじん)

公開日 2016年12月04日

最終更新日 2016年12月04日

1.北条早雲

写真:北条早雲

備中国高越山城主伊勢盛定の子として荏原庄に生まれ、幼少期から青年期にかけて当地で過ごしたといわれます。室町幕府将軍足利義政の弟、足利義視に仕え、応仁の乱の後、駿河守護の今川義忠に嫁いでいた妹を頼って駿河に赴きました。今川家の家督争いの仲裁で頭角を現し、その後、今川家や扇谷上杉家の下で勢力を拡大しつつ、晩年には相模全域を統一しました。家法を定め、検地を行うなど領国の拡大と支配の強化を積極的に進めたことから、最初の戦国大名とも呼ばれています。

2.那須与一

写真:那須与一

源平合戦の英雄として知られる那須与一。那須氏は、源氏に仕えた関東武士で、与一は源平合戦において源義経に従軍し、屋島の戦いで平氏方の舟上に掲げられた扇の的を射落としたことで、一躍歴史に名をとどめました。

後に与一は、合戦での功績から備中荏原庄など全国5ヶ所の地頭職を賜わりました。市内には、与一が屋島の合戦で弓を引く際に破り捨てた片袖を祀ったという袖神稲荷、那須氏の菩薩寺の永祥寺や与一の墓など与一ゆかりの史蹟が今も残っています。

3.雪舟

写真:雪舟

雪舟は総社市赤浜に生まれたと伝えられ、京都・相国寺に入ってから周防国に移った後、遣明使に随行して中国に渡り、中国の水墨画を学びました。作品数は多く、中国風の山水画だけでなく人物画や花鳥画もよくしました。「東福寺誌」や「吉備物語」などの文献によれば、雪舟は芳井町の重玄寺で亡くなったとされていますが、雪舟の生涯には謎が多く、終焉の地についても山口市雲谷庵、益田市大喜庵などの説もあります。

しかし、重玄寺には雪舟作と伝えられる「緋衣達磨像」など画幅が数点残されており、また平成8年には雪舟と重玄寺を開いた千畝和尚とを結びつける資料「也足外集」が発見され注目されています。

4.平櫛田中

写真:平櫛田中

平櫛田中は、後月郡西江原村(現・西江原町)に生まれ、平櫛家の養子になった後、大阪の人形師・中谷省古の下で木彫の修行をしました。後に上京して高村光雲を訪ねましたが、独学により修行を続け、明治末期から大正初期にかけて岡倉天心に師事し、写実的な作風で日本近代を代表する彫刻家の一人になりました。

1944年(昭和19年)から東京美術学校(現・東京芸大)の教授となり、1958年(昭和33年)には代表作「鏡師子」を完成、1962年(昭和37年)には、文化勲章を受章しました。

100歳を超え長命でしたが、死の直前まで創作を続けました。また、田中は美術書をはじめ、漢籍、仏典、哲学書など万巻の書物を読破した大読書家でもあり、自己の感懐や抱負を述べた名言・名句を墨書して残し、今も人々の心をとらえつづけています。

5.内山完造

写真:内山完造

内山完造は、後月郡吉井村(現・芳井町吉井)に生まれました。12歳の時、大阪へ丁稚奉公に出た後、京都の商家で10年間働きましたが、キリスト教京都教会の牧野虎次牧師(後の同志社大学総長)の紹介で28歳の時、大学目薬参天堂の上海出張員として中国に渡ります。そして、1917年(大正6年)、上海に内山書店を開業しました。内山書店には、魯迅、郭沫若、谷崎潤一郎、佐藤春夫、林芙美子ら日中の知識人が頻繁に訪れ、サロンを形成しました。日本の大陸進出に対する反日・抗日運動の中においても、完造は幅広く中国人と友情を結び、戦後は日中友好協会の初代理事長に就任するなど、日中友好・国交回復のために力を尽くしました。

6.阪谷郎廬

写真:阪谷郎廬

阪谷郎廬は、備中国川上郡九名村(現・美星町明治)に生まれました。大坂、江戸で漢学を学んだ後、帰郷して伯父の山鳴大年の勧めで1851年(嘉永4年)に芳井町簗瀬に桜渓塾を開きました。若者達の人材育成を目指した漢学塾です。桜渓塾には、全国各地から郎廬を慕う漢学者・志士たちが集まりました。1853年(嘉永6年)には一橋江原役所が地元の有志の拠金を得て設立した教諭所に教授として招かれ、教諭所を「大学」に出典を求めて「興譲館」と命名し、初代館長に就任しました。その後も1868年(明治元年)まで15年間子弟の育成にあたり、郷土はもとより近代日本に発展に貢献した有能な人材を多く輩出しました。