平成25年3月1日掲載

大山 文雄
(おおやま あやお)

【1882〜1972】

 

大山文雄は、後月郡西江原村(現在の井原市西江原町)に生まれ、義之小学校、精研高等小学校で学んだ後、一年ほど興譲館で漢学を学びました。その後、父の病気のため、西江原村役場、後月郡役所に勤めました。しかし、19歳のとき、高等官になると決心し、上京。日本法律学校(後の日本大学)の夜学へ苦学して通い、明治37年に、判事・検事の登用試験に合格し、翌年より陸軍軍法会議裁判所に勤めました。昭和17年には、陸軍法務中将となりますが、昭和20年、予備役となり、郷里の西江原町へ戻り、西江原町長となります。戦後、東京裁判で再び上京し、法務局長となり約4年間勤務します。東京裁判終了後、帰郷し岡山で弁護士を開業していましたが、昭和28年、井原市制施行により市長に推され、同年から井原市長として三期務め、井原市の基礎を築きました。


  (詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.63掲載)



平成24年3月3日掲載

川合 仲象
(かわい ちゅうぞう)

【1728〜1804】

 川合仲象は、備中国小田郡大江村(現在の井原市大江町)の庄屋に生まれ、若いときより学問に秀でていました。明和4年(1767)の大かんばつの際に、自らの財産を投じて領民を救い、その経験をもとに福山藩主に藩政改革について上申し、その見識を高くかわれ、福山藩につかえることとなりました。さらに、その学識より朝廷御用を承り、京都に住みその地で亡くなっています。
 仲象は多くの著述を残し、農学をはじめ神道および儒学に関する優れたものが多く、特に「神代神籬」と題する古代神道についての論述は、時の天皇である後桃園天皇に献上しています。現在大江町に残る子孫の家には後桃園天皇から拝領した「常の御殿の御茵」が保存されています

 写真は井原市大江町の川合仲象の墓。

  (詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.17掲載)



平成24年2月2日掲載

相田 嘉三郎
(あいた かさぶろう)

【1854〜1921

 相田嘉三郎は、後月郡西江原村(現在の井原市西江原町)の相田家の次男として生まれ、その後、呉服商を営む伯父嘉助の養子となりました。
 青年の頃までは家業の呉服商に励んでいましたが、養蚕・製糸の振興を計画し、養蚕の研究に取り組みました。
 養蚕が盛んであった信州や関東・東北地方へ行って桑の作り方や蚕の飼い方などを研究し、この地方の土地や気候に適した養蚕法を発案しました。嘉三郎はこの養蚕法を印刷し、県下はもとより広島県東部から島根県西部地方に至るまで配るとともに、伝習生を養成して各地で指導に当たらせ、地域の養蚕普及に大きく貢献しました。


  (詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.40掲載)



平成24年1月5日掲載

阪谷 芳郎
(さかたに よしろう)

【1863〜1941

 阪谷芳郎は、阪谷朗廬の四男として後月郡寺戸村(現在の井原市西江原町)で生まれました。明治5年(1872)、上京していた朗廬について一家をあげて東京に移ることになり、芳郎も東京へ移りました。
  芳郎は11歳で箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の三叉学舎(さんしゃがくしゃ)に入門し、その後、東京英語学校(のちの東京大学予備門)、東京大学で学び、大蔵省に勤めました。主計官、主計局調査課長を歴任し、会計法を起草しました。
 また、明治23年(1890)の第一回国会召集では、新年度の歳入歳出の総予算を編成するという大任を果たしました。同36年に大蔵次官となり、翌年37年の日露戦争の開始に伴い、戦時財政確立の重任を担いました。同39年には大蔵大臣となり、戦時公債の整理、産業資金の誘導など困難な局面の打開に手腕を振るいました。

  (詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.34掲載)



平成23年12月3日掲載

加賀尾 秀忍
(かがお しゅうにん)

【1901〜1977

 加賀尾秀忍は、現在の真庭市落合町にあった極楽寺に生まれました。落合尋常小学校を卒業後、同じ落合にある木山寺に入り、住職高藤秀本に漢籍・経文を習いました。その後京都大学で仏教を学び、卒業後、昭和3年(1928)に東江原町にある宝蔵院の住職として赴任しました。
  戦後の昭和24年には、政府より戦犯を収容した刑務所の教誨師(きょうかいし)としてフィリピンへ派遣されました。そこで秀忍は、収容されている戦犯の日本人助命嘆願を行い、特にモンテンルパ刑務所では収容されている108人もの日本人の釈放、日本への返還が叶いました。

  (詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.48掲載)



平成23年11月2日掲載

平木 京助
(ひらき きょうすけ)

1798〜1856

 平木京助は、木之子村(現在の井原市木之子町)に生まれ、一橋領の掛屋として領内の年貢米の管理などにあたりました。
 また、稲木川の下流の掘削を行い、天保川を新たに整備し、沼地であった土地を水田に開発しました。
 また、阪谷朗廬や田川泥亀とも親交があり、地域の子どもたちの教育にも熱心にあたりました。

  (写真は『平木家屋敷跡』)

  (詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.27掲載)



平成23年9月29日掲載

森 六峰
(もり ろっぽう)

1879〜1946

 森六峰は、後月郡池谷村(現在の井原市芳井町)で生まれ、河合栗邨(かわいりっそん)に師事した後、京都に出て、田能村直入(たのむらちょくにゅう)の門下に入り、南画を学びました。
 六峰は直入晩年の弟子で、直入が景勝地を訪ねて諸国を巡るときはたびたび六峰を同行させたそうです。
 明治41年(1908)、井原町の森家に婿養子に入った後は、井原と京都の両方を拠点として画業の研鑽に励みました。

  (詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.59掲載)



平成23年8月29日掲載

三村 政太郎
(みむら まさたろう)

【1848〜1917】

 三村政太郎は、後月郡山野上村(現在の井原市野上町)に生まれました。家業の酒造業に励むかたわら自宅に塾を開いて多くの人に文学や漢学を教えて、「先生」と尊敬されていました。
 明治9年(1876)、28歳の若さで西方・門田・木之子・東江原・神代・山野上の六か村を所管する副戸長になり、明治11年には戸長になりました。
 明治12年(1879)、初めて岡山県議会が開かれた際、坂田警軒とともに、後月郡から初代の県会議員に選出されました。
 明治15年の大干ばつで被害を受けた地域の農民の窮状を救うため、西江原村の大山邦一と図り、溜池の計画を立てました。2年7カ月の歳月をかけ明治24年(1891)に完成した溜池は明治池と命名され、西江原地区の才児・戸倉地域の水田面積は大幅に拡大されました。

  (詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.39掲載)



平成23年7月30日掲載

小寺 全志
(こでら ぜんし)

【1877〜1936】

 小寺全志は、後月郡西方町(現在の井原市西方町)に生まれ、高松農事講習所(現在の高松農高)卒業後、農業技師を務めていました。
 大正11年(1922)、父小寺純一郎の跡を継いで県主村長に就任すると、父の代からの課題であった稲木川の治水問題を木之子村との間で解決し、4キロにわたる河川改修を行いました。その結果、今まで泥田であった水田が乾田となり、この耕地に藺草(いぐさ)を植えることを奨励しました。

  (詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.43掲載)



平成23年6月25日掲載

内藤 中心
(ないとう ちゅうしん(なかご))

【1740〜1817】

 内藤中心は、土佐藩士として高知に生まれました。土佐藩に仕えていましたが、天明年間の末(1780年代後半)、脱藩し、備中国小田郡烏頭(うとう)村(現在の井原市美星町烏頭)に移り住みました。
 この地で30年間、歌学に励むかたわら、後進の指導に努め、門人の数は千人を超えたと言われています。
 生前桜と古刀を愛した中心は、雅号を桜の舎といい、生涯に詠んだ詠歌は4万にものぼります。

  (写真は井原市指定史跡『内藤中心の墓』)

  (詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P17掲載)



平成23年5月29日掲載

山下 秋堂
(やました しゅうどう)

【1864〜1944】

 山下秋堂は、浅口郡六條院村(現在の浅口市鴨方町六條院)に生まれました。興譲館に入り、坂田警軒について、四書五経を学び、詩や文章を修めました。
 明治20年(1887)に師である坂田警軒のあとをついで弱冠24歳で興譲館の教授として招かれましたが、その後すぐに同志社に招かれ、教授として教鞭をとりました。
 明治33年(1900)、留守教授の奥田諫山(おくだかんざん)が亡くなったため、館長として興譲館へ迎えられました。秋堂は、興譲館を中学校令による中学校へ改組し、次いで商業学校も開設し、有能な人材の輩出に尽力しました。

  (詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.32掲載)


平成23年4月29日掲載

河合 栗邨
(かわい りっそん)

河合 文林 (かわい ぶんりん)

【1851〜1908】
【1875〜1912】
 河合栗邨は、浅口郡西阿知村(現在の倉敷市西阿知)に生まれ、その後、後月郡川相村(現在の井原市芳井町)の河合家の養子となりました。 高梁の画家白神澹庵(しらがたんあん)に師事して南画を学ぶようになり、特に、山水花鳥を描くのが得意でした。明治8年(1875)ごろ、画業に専念するため井原村に移り、栗邨画房を開き、郷土の画家を育てました。  

 文林は、栗邨の子として後月郡川相村に生まれました。父の才能を継ぎ、福山の画家藤井松林に師事し、さらに松林の紹介で京都に出て、今尾景年の弟子となりました。同じ弟子仲間の木島櫻谷(このしまおうこく)と並んで、景年の二哲と称せられるほどになりました。 しかし、健康を害したため帰郷し、静養のかたわら絵の勉強に励みました。病気療養後は母校興譲館へ迎えられ、図画教師となり多くの子弟を指導し、郷土の芸能文化向上のために貢献しました。

  (詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.57掲載)


平成23年3月31日掲載

佐藤 善一郎
(さとう ぜんいちろう)

佐藤 小夜女 (さとう さよめ)

【1841〜1902】
【1874〜1889】
 佐藤善一郎は、後月郡井原村(現・井原町)に生まれ、矢掛村(現在の小田郡矢掛町)の佐伯義門(さえきぎもん)について和算を学び、その後、藤田秀斎について小田県庁に仕えました。
 地租改正の元になる準備作業として、山陽道・四国・播磨・山陰地方の地籍測量に携わり、その際、その土地の寺社へ算額を奉納したと考えられています。
 役人を辞めたあとは、郷里井原で算盤や俳諧を教えていたといいます。

 小夜女は善一郎の娘で、父から和算を学び、父とともに算額を奉納しています。
 わずか16歳で、父の赴任先の京都で亡くなりましたが、すばらしい刺繍図案帳を遺しています。
 (写真は足次山神社に奉納された算額)

  (詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.19掲載)


平成23年2月11日掲載

古かん 仁泉
(こかん にんせん)

【1379〜1458】

 古かん仁泉は、信濃(しなの)国(現在の長野県)に生まれ、曹洞宗の本山である総持寺の住職(96世)となっています。その後、師匠である太容梵機(だいようぼんき)が開いた丹波国(今の京都府)の玉雲寺の二代目として活躍していました。その仁泉を荏原郷の領主であった伊勢盛定が招いて法泉寺を開きました。
 法泉寺は、伊勢氏のほか備中守護職である細川氏や地元の有力武士たちから土地の寄進を受け大いに発展し、備中・備後に末寺30ヶ寺を持つまでになります。仁泉は、亡くなる年に弟子である3人の僧に法泉寺の住職を交代で務めるよう遺言し、この地で80歳の生涯を閉じました。(写真は岡山県指定文化財『木造古かん仁泉像』)
※古かん仁泉の「かん」の字は、「潤」の「王」の部分が「月」の字。

  (詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.13掲載)


平成23年1月16日掲載

枝 益六
(えだ ますろく)

【1847〜1909】

 枝益六は、元福山藩士で小田県下に置かれた啓蒙所の教師となり、明治8年(1875)に興譲館につくられた小田県伝習所で坂田警軒に学びました。
 翌年5月、深安郡大門村(現福山市)の剛山小学校の教師を辞して、現在の井原小学校の前身である元之(げんし)小学校へ赴任し、以後20年間、井原地域の教育の基礎を築きました。
 特に幼児教育の必要性を痛感し、夫人アサとともに明治19年(1886)に井原小学校付設幼稚科を開園しました。これは岡山県師範学校付設幼稚園に次いで県内では2番目で、全国でも10番目の創立でした。
  (詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.49掲載)


平成22年12月24日掲載

実峰 良秀
(じっぽう りょうしゅう)

【1317?〜1405】

 実峰良秀は、京都に生まれ出家した後、曹洞宗の本山である総持寺の峨山紹碩(がざんしょうせき)に師事しました。
 実峰は、嘉慶元年(1387)に領主の那須資道(すけみち)・資英(すけひで)親子に招かれて永祥寺を開きました。また、この永祥寺の末寺として正本寺(青野町)も実峰が開いたとされ、彼や彼の弟子たちによって建てられた備中地域の曹洞宗の寺は70ヵ寺以上にのぼり、その影響力は明治時代まで続きました。
 備中地域の曹洞宗発展に貢献した実峰は、応永12年(1405)に永祥寺で亡くなったと伝えられています。 (写真は岡山県指定文化財『木造実峰良秀像』)

  (詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.12掲載)


平成22年11月14日掲載

千畝 周竹
(せんみょう しゅうちく)

【1379〜1458】

  千畝周竹は、京都の近衛(このえ)家に生まれ、安芸国(現・広島県)の三原にある仏通寺の開山愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)のもとで臨済宗を学び、のちに芳井町の重玄寺などのお寺を開きました。
 画聖雪舟はこの千畝と親交があり、その縁がもとで重玄寺を訪れたとされ、重玄寺は雪舟終焉の地の候補のひとつとなっています。
 近年、千畝が残した『也足外集(やそくげしゅう)』に千畝と雪舟の一族との親交についての記述が見つかり注目されています。また、千畝は近衛家出身ということで、重玄寺には近衛家ゆかりの資料が多く残されています。

  (詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.14掲載)


平成22年10月27日掲載

上野 耐之
(うえの たいし)

【1901〜2001】

  上野耐之は、後月郡高屋村(現・高屋町)出身のテノール歌手であり作曲家です。
 昭和3年(1928)に恩師の山田耕筰の前で、子供の頃母に聞かされていた子守唄を唄ったところ、感動した山田耕筰が編曲して、“中国地方の子守唄”が誕生したエピソードで知られています。
 平成13年(2001)に百歳で亡くなるまで、成城学園(小学校)の教師、イタリアへの留学、レコード会社との専属契約の歌手兼作曲家、満州国・新京音楽院での指導者、東京音楽院の教師と音楽一筋の道を歩みました。 (写真は耐之と母の今)

(詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.61掲載)


平成22年9月29日掲載

柴原 宗助
(しばはら そうすけ)

【1847〜1909】
 柴原宗助は後月郡井原村(現・井原町)の庄屋・柳本家に生まれました。
幼いとき、大坂の薬屋に勤めたり、京都の同志社で新島襄(にいじまじょう)に学んだりしました。
 その後、高梁の柴原家の養子となりますが、キリスト教の信者となって高梁のキリスト教会設立に尽力しました。
 明治12年(1879)に県議会が開かれ、上房郡から推されて第1回の県会議員となりました。
 自由党に属し板垣退助、福沢諭吉、地方では坂田警軒らとも交流がありました。
 明治31年(1898)、郷里の人々に懇願され井原町長となり、明治38年まで在職約8年間、町制発展のために尽力しました。

 (詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.36掲載)


平成22年8月19日掲載

山鳴 大年
(やまなり だいねん)

【1786〜1856】
 山鳴大年は、後月郡簗瀬村(現・芳井町)の庄屋・山成家に生まれました。
 早くから神辺の菅茶山について漢学を修め、後に蘭医を志し長崎で最新西洋医学を究めました。
 長崎に数年滞在後、故郷に帰り医業を始めました。
 大年は評判もよく、遠くからも治療のために来院する人が多くいました。
 その後、一橋藩の御用医となり、代官の命によりその頃流行していた天然痘防止に尽力し、養子の弘斎とともに村の人々に初めて種痘を実施しました。
 また学者でもある大年は、郷土の人材を育てることにも力を注ぎ、甥の阪谷朗廬に漢学を教えたり、大戸郁蔵(緒方研堂)の俊才を見抜いて私財を投じて医学を学ばせたりしました。
(写真は、山鳴大年生家)

 (詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.20掲載)


平成22年7月28日掲載

友山 勝次
(ともやま かつじ)

【1847〜1858(在任期間)】
 友山勝次は、幕府の御家人で一橋家の西江原領の代官に任命され赴任しました。
 在任期間は代官の中では最長の約10年におよび、その間、門田村大谷山の開墾、興譲館の設立などさまざまな業績をあげ、近代の井原の基礎をつくりあげました。
 友山代官は、庶民の声をよく聞き、地元の庄屋など有力者から実情を探り、その時代にあった政策を行い、経済、産業、教育のあらゆる分野で業績を上げました。安政5年(1858)に代官職を解かれ、阪谷朗廬らに別れを惜しまれつつ江戸に帰りました。 (写真は門田町にある大谷山開墾碑)

 (詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.26掲載)


平成22年6月18日掲載

大月 源
(おおつき げん)

【1733〜1808】
 大月源は、備中の刀工のひとつ、荏原国重派の家系に生まれました。(現・東江原町)
 16歳で父の大月伝十郎と死別、伯父の伴十郎に引き取られ、その後12代目の甚兵衛国重と結婚しました。しかし甚兵衛は病気で鍛刀は無理だったため、お源は家系存続のため刀工となり、作刀をおこないました。
 お源の作品は短刀がほとんどで、中でも50歳の時に鍛えた短刀には新々刀(江戸時代の刀)とは思えないほどの秀作があり、女刀工という珍しさだけでなく、その技量を世に認められました。

 (詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.16掲載)


平成22年5月18日掲載

緒方 研堂郁蔵
(おがた けんどう(いくぞう))

【1814〜1871】
 緒方研堂は、後月郡簗瀬村(現・芳井町)に生まれ、はじめは大戸郁蔵(おおどいくぞう)といいました。
少年の頃、山鳴大年(やまなりだいねん)について漢学を学び、大年の勧めで江戸に出て、津山藩の儒学者昌谷精渓(さかやせいけい)の門人となって漢学を研究しました。その後、坪井信道の塾に入り蘭学を研究し、信道の塾で足守藩(あしもりはん)の出身である緒方洪庵(おがたこうあん)と出会い、洪庵に指導を受けました。
 緒方洪庵が天保9年(1838)に大阪で適塾を開業したことを聞くと、研堂は洪庵の所へ行き、そこで塾頭となりました。蘭学や医学を研究しながら、門弟を教え、患者治療の手助けをしました。その後、研堂は洪庵と兄弟の約束を交わし義弟となり、緒方研堂と名乗りました。
 研堂は後に独笑軒(どくしょうけん)という塾を大阪に開き、それ以来、人々は洪庵の塾を北の緒方、研堂の塾を南の緒方と呼ぶようになりました。明治2年(1869)、明治新政府が大阪に病院を開いたとき、研堂は少博士に任ぜられ、洋書の翻訳、教授及び治療に従事しました。

 (詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.21掲載)


平成22年4月11日掲載

森近 運平
(もりちか うんぺい)

【1881〜1911】
 森近運平は、後月郡高屋村(現・高屋町)に生まれました。
 明治30(1897)年にできた岡山県農事講習所、さらに岡山県農学校に進み、首席で卒業。明治35(1902)年に県庁へ入り農政を担当しましたが、そのころから地主と小作人の階級矛盾の打破が必要と考え、明治37(1904)年7月に社会主義研究組織「岡山いろは倶楽部」を設立しました。このいろは倶楽部で社会主義宣伝活動を活発に行っていましたが、それが県当局に知られ同年12月に運平は県職員を依願免官となっています。
 明治39(1906)年、日本初の合法的社会主義政党である「日本社会党」が結成されると、運平は片山潜・堺利彦らとともに評議員に選ばれ、党内で中心的役割を果たしました。
 日本社会党の党内で路線対立が起こると、運平は大阪へもどり「大阪平民社」を再建し、講演会活動、出版活動を活発に行いますが、治安当局の弾圧が強化され、運平自身も禁固刑を受けて服役しています。
 服役後はいったん帰郷しますが再び上京し社会主義活動を再開します。しかし、生活苦や同志との路線対立などから明治42(1909)年に高屋に帰省。帰省後は農業を行い、地域の農事改良の先駆者を目指していましたが、わずか一年あまりで大逆事件に連座し逮捕されます。
 運平は大逆事件とは関係なく冤罪(えんざい)でしたが、政府の社会主義運動を一網打尽に壊滅させる犠牲者となり、助命運動もかなわず死刑となりました。

 (詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.52掲載)


平成22年3月16日掲載

坂田 警軒
(さかた けいけん)

【1839〜1899】
 坂田警軒は、興譲館初代館長・阪谷朗廬(さかたに ろうろ)の甥で、朗廬と同じく川上郡九名(くみょう)村(現・美星町)に生まれ、朗廬夫妻によって家族同様に教育されました。
 明治元(1868)年に朗廬が広島藩に招かれたため、二代目館長に就任、明治維新後に経営が悪化した興譲館の運営に努め、地域の子弟の教育にあたりました。
 また明治12(1879)年には岡山県会議員に選出され初代議長に就任、国会開設にも尽力し、地方の意見のとりまとめなどを行いました。
 翌年、興譲館の運営に専念するため県会議員を辞職しますが、明治20(1887)年に同志社の講師に招かれ、興譲館を奥田諫山(おくだ かんざん)に託して京都へ出ます。
 明治23(1890)年国会が開設されると衆議院議員に選ばれ、二期にわたって国政にあたりました。
 明治26(1893)年には東京に移り、慶応義塾や東京高等師範学校などの講師を勤めました。

 (詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.30掲載)


平成22年2月12日掲載

池田 長発
(いけだ ながおき)

【1837〜1879】
 池田長発は16歳のとき、井原や片塚などの領主である池田家の養子になりました。
 幕府に仕えてからは、京都町奉行などを歴任後、27歳で外国奉行に抜擢され、遣欧使節正使として横浜港の鎖港を交渉するためパリに渡りました。
 パリでナポレオン3世に会ったのち、長発はフランスの外務大臣と7回にわたり会談しましたが、鎖港が不可能であることに気づき、外国船砲撃の賠償・下関海峡の外国船航行の安全・関税率の引下げなどを定めたパリ約定に調印、早々に帰国しました。
 帰国後、長発は会談の様子を幕府に報告、西洋諸国との和親や留学生の派遣などを説きましたが、その意見は採用されることなく、交渉失敗の責任として領地半分の没収、謹慎処分・隠居(いんきょ)を命じられました。その後許されて、軍艦奉行に任命されましたが、病気を理由に半年後に辞めています。
 明治維新後は岡山に引き上げ、領地の井原に帰る予定でしたが、岡山藩主らの引きとめにより、そのまま岡山で悲運の生涯を閉じました。

(詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.24掲載)


平成22年1月21日掲載

馬越 恭平
(うまこし(まごし) きょうへい)

【1844〜1933】
 馬越恭平は、後月郡木之子村(現・木之子町)に生まれました。
 明治6(1873)年、三井物産の前身である先収会社に入社、明治26(1893)年には常務理事に就任しました。
 ビール業界が経営難に陥っていた明治後期には、三井物産の子会社であった日本麦酒(後のエビスビール)の経営改善に当たり、銀座にビアホールを開くなどビール需要増大に力を注ぎました。またビール業界間の再編に着手し、日本麦酒と大阪麦酒(後のアサヒビール)、札幌麦酒(後のサッポロビール)を合併して大日本麦酒を誕生させました。この大日本麦酒は当時のビールシェアの79%に達し、恭平は「ビール王」と呼ばれるまでになりました。
 また明治31(1898)年には衆議院議員、大正13(1924)年には貴族院議員に就任。地元に対しても井原笠岡軽便(けいべん)鉄道の初代社長に就任するほか多額の寄付を行い、井原の発展に貢献しました。

(詳しくは「井原歴史人物伝 郷土が生んだ偉人たち」をご覧ください。P.44掲載)