絵画

絹本著色普賢菩薩像・絹本著色文殊菩薩像(国指定) 絹本著色普賢菩薩像・絹本著色文殊菩薩像(県指定)

 両画像とも縦133.0cm、幅53.0cm。ともに六角の天蓋を頭上にいただき、文殊菩薩像(左)は、右手に三鈷剣を立て、右手に蓮華を執り、顔を向かって右方へ向けて、青獅子の背に朱色の蓮華を据え、その上に右足を踏み下げて坐す。普賢菩薩像(右)は、胸元で合掌しながら、六牙の白象上の白蓮華に、左足を踏み下げて坐す。尊容は優美で温和な感覚を見せ、平安時代後期の貴族的優雅さの特色を感じさせる。しかしながら、鎌倉時代の感覚の芽生えも認められ、両時代の過渡的な様式をもつ。特に、文殊菩薩の画像は、全国的にも最古の1例として考えられ学術的にも価値が高いものである。
群鶴の図(市指定)
群鶴の図(市指定)

 木之子町沼地区は、古くから水鳥の生息地、飛来地として名高く、ツル、ガン、サギなど多くの水鳥が見られた。この絵図は、その当時の様子を描いたもので、安政5年(1858)に描かれたことがわかる。描かれている鶴は、マナヅル、タンチョウヅルのほか、現在は日本に飛来していないソデグロヅル(シベリア産)も描かれていて、当時の様子がわかる貴重な資料である。沼地区は、古歌にも詠まれる備中の鶴の名勝地として広く知られている。この情景は、明治時代中ごろ、沼地区の集落化と乱獲のため見られなくなった。

ペリー来航絵図(市指定)
ペリー来航絵図(市指定)

 この絵図は、嘉永6年(1853)にアメリカ合衆国のペリー提督が日本を開国させるために、黒船4隻を率いて浦賀へ来航したときの様子を描いたものである。その上陸の様子を警国隊士細渊某が記録したものを、のちに、江戸幕府の兵士である西村正信が書き写したもので、翌、安政元年(1854)にペリーが再来航し、神奈川に上陸した絵図も残っている。ともに、船の姿、アメリカ兵の服装、上陸の状況などが細かく描かれ、ペリー来航の様子を知る貴重な資料である。

大月源画像(市指定) 大月源画像(市指定)

 この画像は、日本で唯一の女性刀工大月源を描いたものである。時代は、江戸時代後期で、縦85.6cm、横36.7cm。ここの画像は、お源の息子13代国重伴七が家系途絶の危機を防いだ功績に感謝し、また、母の形見に残そうと思い、信喬という絵師に描かせたものである。この画像は、女人禁制といわれた刀工の世界を、家系存続のためその禁を破って刀工となったわが国唯一の女性刀工お源の風貌を伝える貴重な資料である。なお、同家には、「国重由緒写」、「鍛冶心得大意」も伝えられており、江戸時代の刀工荏原国重派を知る上で貴重な資料である。
北条早雲画像(市指定) 北条早雲画像(市指定)

 この画像は、関東で活躍した戦国時代の武将北条早雲を描いたものである。絹本著色で、時代は、江戸時代前期(推定)、翠雲齋占龍軒という絵師に描かせた、横38.3cm、縦87.7cmの画像。この画像は、北条早雲が亡くなった後に、後世のひとが早雲の威徳を伝えるために描かせたものであり、法泉寺へ納めたことが想像される。この画像は、井原の地で生誕したことを証拠づけるだけではなく、現在残されている早雲の画像のなかで唯一の武将姿の画像であり貴重な資料といえる。
三十六歌仙絵扁額(市指定) 三十六歌仙絵扁額(市指定)

 縦42.4cm×横31.8cm。一歌仙一扁額形式。昭和60年の神社修理の際に発見された。大きな木箱に三十六枚の扁額が収まっている。もとは神社に掲げられていたと思われる。柿本人麻呂の扁額の裏面に享保九年九月吉日、備陽笠岡木山八素二光冨敬拝と記されている。これより奉納者は笠岡の木山光冨と考えられる。
那智参詣曼荼羅図(市指定)
那智参詣曼荼羅図(市指定)

 室町時代後半以降、修験道関係において、宗教活動が活発になり、御師(おし)や先達などが、この種の絵説き式曼荼羅図を持って地方の布教にまわった。画面上部に那智神社、下方には補陀落山寺、熊野那智権現の大鳥居が描かれている。社寺の景観や参詣の模様に加えて、後鳥羽上皇の御経共養、文覚上人が不動明王に救われたという御滝信仰、補陀落渡海入定の光景など縁起的な要素も巧みに取り入れられている。江戸時代に量産されたもののひとつであろう。現在は県立博物館で管理保存している。