石造美術

伝那須一族の墓(市指定)
伝那須一族の墓(市指定)

 この墓は、高さ約1m、長さ約10mの須弥壇状の石垣の上に宝篋印塔1基と五輪塔6基からなる。いずれも、備中一円によく見受けられる粒状石灰岩で造られていて、宝篋印塔は、高さ1.1m、天文15年(1546)11月6日の銘がある。那須氏は、もともと下野国(現在の栃木県)の那須地方を治めていた豪族。鎌倉時代に那須与一の屋島の合戦の功績により、源頼朝より荏原庄(現在の井原市東部)ほか5ヶ所の領地を拝領した。その後、西江原町の小菅城を居城にし、戦国時代のころまでこの地方の地頭として荏原庄を治めていた。

伝為朝の墓(市指定)
伝為朝の墓(市指定)

 この墓は、土塀をめぐらせた墓域内に須弥壇状の一段高い石垣をもうけ、その上に 9基の五輪塔が立てられている。その中でも、為朝の墓と伝えられているものは、右端の最大のもので、高さ1.35m、石質は豊島石に似た角礫質凝灰岩製である。全体的に簡素なつくりではあるが、背が低くやや角張った球形の水輪や背の低い火輪などの形状から鎌倉時代の初期に造られたと思われる。源為朝は、父為義に従って保元の乱(1156年)で兄源義朝や平清盛と戦うが、敗れる。しかし、処刑されるところを武芸の才を惜しまれ伊豆大島に流される。地元では、伊豆大島より琉球にわたり、その後金剛福寺の僧をたよって当地で亡くなったと伝えられている。

マリア観音像(市指定)
マリア観音像(市指定)

 この観音像は、石で組まれた高さ1.20m、幅70cmの祠に安置されている。像自体は坐像で、高さ60cm、幅32cmの木の葉状の花崗岩に彫られていて、右手に持つ花枝が右肩上に伸びている。頭上には、下に伸びる線が短い十字架を刻んでいる。また、台石には、「東江原 聖母マリア 立田中忠蔵」の銘がある。田中忠蔵は、明治42年(1909)に亡くなった人物で、洗礼を受けていた熱心なキリシタンであったと伝えられている。時代は明治時代と思われるが、この地域のキリスト教信仰を知る上での貴重な資料である。

鹿苑院殿石塔婆(市指定)
鹿苑院殿石塔婆(市指定)

 この石塔婆は、善福寺の山門内側の地蔵堂の右端にある宝篋印塔で、総高74.0cm、最上の相輪は欠いている。粒状石灰岩製のため、各部の角が風化、摩耗しているが、笠以下はそろっている。また、隅飾突起が比較的小さめで、基礎側面を無地に造るところは、粒状石灰岩製の宝篋印塔の特徴を備えている。基礎正面に、以下の刻銘がある。 「 鹿苑院殿 准三后 大相国天山 大禅定門台霊 応永十五年 五月初六日」 この刻銘によれば、この宝篋印塔は、応永15年(1408)に、鹿苑院殿こと足利義満を供養するために立てられたということがわかる。在銘の粒状石灰岩製宝篋印塔としては県内でも古例といえ、室町時代の基準作となる貴重な資料といえる。

向東の宝篋印塔(市指定) 向東の宝篋印塔(市指定)

 中世(13世紀〜16世紀)つまり鎌倉時代から戦国時代までに造られた石造物である。岩質のは粒状石灰岩製塔であるが、相輪の中ほどより上が失われているし基礎の下半が失われている。風化で角が崩れているが、馬耳突起がやや開き気味で華美に彫刻され、また、相輪が太い点から室町時代後期の作と推定されている。四面の梵字に阿弥陀如来、千手観音、大勢至菩薩、藍染明王を著したものである。
八日市の宝篋印塔(市指定)
八日市の宝篋印塔(市指定)

 この宝篋印塔は、岩質が礫岩で風化が著しく、基礎の下部は埋まって確かでない。請花の部分より上は失われて、現存の相輪は後世の模造品と推される。形としては、蓋の馬耳形突起が力強く素朴に直立し、向組の塔よりも古く、鎌倉時代にさかのぼる作の風格を備えている。八日市は、その名の示すとおり毎月八日、十八日、二十八日の三斎市の開かれていた所と思われ、井原市の七日市、今市、川上郡の小谷市、高山市などと一つの商業圏で結ばれていたと推定される。この八日市の長泉寺縁起によると、九鳥左衛門尉景定の城址が貞治元(1362)年、寺院になったといわれているため、九鳥氏との関係ある追善塔か墓碑であったかとの推察もある。

宇戸谷の五輪塔群(市指定)
宇戸谷の五輪塔群(市指定)

 この五輪塔群は総数30基、宝篋印塔3基が南面して一列に並んでいる。やや中央の1基がもっとも大きくその水輪には仏像が深く刻まれている。空輪、風輪が一連化している点から中世中期から後期のものであり、水輪の肩が張っているのは中世中期の南北朝期前後のものに多い。地下から骨壷が出土していることから墓碑を伴うものと推定される。谷を隔てて東側には上黒、茶臼山城址があり、五輪塔との関係を思わせる。この城主は鎌倉時代、矢掛辺りへ移った浅口郡小坂荘の小坂氏であったといわれる。

宇戸の宝篋印塔(市指定)
宇戸の宝篋印塔(市指定)

 宇戸荒神社のキツネ山にある数基の宝篋印塔のうち、2基の塔身部に応永年間(室町時代)の銘が残されている。もともと1.5m程度の立派なものであったが崩れて散在している。刻まれた銘は「応永廿四、十一、廿二、性勒禅尼」(1417年)「応永十九、七月十、因坊」と判読できる。銘の刻まれた宝篋印塔はこの地域で非常に珍しく室町の初め頃、この地にかなりの勢力の豪族が住んでいたことがわかる非常に貴重な歴史資料である。