史跡

興譲館(県指定)
興譲館(県指定)

 興譲館は、庶民の子弟の教育を目的として、当地の領主一橋家の代官友山勝治が西江原領内に、嘉永6年(1853)、漢学者阪谷朗廬を招いて創立した郷校である。創設当時の姿をとどめているのは、講堂と校門、そして阪谷朗廬お手植えと伝えられる紅梅である。講堂(書斎付)は、嘉永6年(1853)に建てられた。元は藁葺きであったものを、安政6年(1859)に現在のような瓦葺きとなった。校門は桟瓦葺きで、初代館長と親交のあった渋沢栄一の揮毫した扁額がかかっている。また、紅梅は、樹齢約150年で、根元付近より東西に分かれ、毎年春には美しい花を咲かせている。

金敷寺裏山墳丘墓(市指定) 金敷寺裏山竪穴式墳墓(市指定)

 この墳丘墓は、経ヶ丸山の丘陵東端、標高約180mの東へ下る尾根上にある弥生時代末期から古墳時代初期にかけて造られた方墳である。墳丘内には葺石が方形に葺かれていた。また、墳丘のほぼ中央に墓壙が掘られ、内に竪穴石槨をもつ。石槨は、長さ約2.6m、幅約0.7m、深さ約0.6mで、粗雑な割石を積み、偏平な6枚の天井石で覆う。床には、熟年男性人骨が1体、墳丘周辺より特殊器台・特殊壷の破片が出土している。弥生時代から古墳時代にかけての移行期の墳墓として貴重な遺跡である。
工(匠)ヶ城跡(市指定) 工(匠)ヶ城跡(市指定)

 この城は、鎌倉時代末期、笠置山合戦に足利尊氏軍勢として参加し活躍した陶山八郎吉次の居城として伝えられている。南東方向に伸びる標高約120mの尾根先端に造られている。本丸、さらに西方向に2段の郭で構成されており、2番目の郭の東端には土塁の跡も残っている。また、本丸の南方向と東方向に腰郭が張り出し、南方向の腰郭は4段で構成されている。戦国時代の典型的な山城で、本丸からは、稲倉地区が一望でき、現在も当時の状況をよくとどめている。
高越城跡(市指定) 高越城跡(市指定)

 この城は、鎌倉時代末蒙古襲来の際、宇都宮貞綱によって築城されたと伝えられて、南北朝の合戦の場にも使用された。戦国時代には、備中伊勢氏が那須氏に代わって荏原庄を治め、この高越城を居城にしていた。、標高約170m、山陽道、小田川が眼下に広がり、笠岡、矢掛、井原市街地が見渡せる。本丸を含めて3段の郭で構成され、堀切も残っており、現在も当時の状況をよくとどめている。
石塔山古墳(市指定)
石塔山古墳(市指定) 

 大江町の石塔山山頂(標高 105m)にある直径約15mの円墳で、墳丘中央部に、天井石が6枚あり、その下に、長さ3.5m、幅0.85mの竪穴石室をもっている。1959年の倉敷考古館の調査で、この石室より、赤色顔料が塗られた男性の人骨、ガラス玉、鉄剣が出土し、古墳時代中期(今から約1500年前)に造られたことが確認された。石塔山古墳は、古墳時代の前半に井原市西部を治めた豪族やその関係者の墓であると思われる。

牛神遺跡(市指定) 牛神遺跡(市指定)

 遺跡は、石を積み上げて築かれた低い基壇上にある7基の塚状の石積みと、その南東に離れて単独に存在する1基の塚状の石積みから構成されている。これらの石積みの中央には石室が設けられていて、そのうち4基に甕が残っている。この甕のうち3つは亀山焼で、この甕よりこの遺跡の時期が、平安時代末から鎌倉時代初頭と考えられる。中世の信仰を今に伝える貴重な遺跡である。
明見銅鐸出土遺跡(市指定) 明見銅鐸出土遺跡(市指定)

 平成4年11月21日、農地を耕作中にこの場所より銅鐸が出土し、現地で確認したところ埋納施設が残っていた。今回出土したのは、「扁平鈕式六区袈裟襷文銅鐸」で、保存処理をおこなう過程で、銅鐸の内外より朱が検出された。これは発見時では、全国で2例目、現在でも6例しか確認されていないもので、非常に貴重な資料となり、当時の銅鐸の姿、祭りの様子を考える上で貴重な情報を提供した。
名越経塚(市指定) 名越経塚(市指定)

 名越経塚は、井原市西江原町戸倉字名越にある西江原の四国霊場第七十九番天皇寺のお堂の隣につくられている。経塚の上には石塔が立っていて、その4面には文字が刻まれている。その碑文から、この経塚は、元文3年(1738)に枯木庵の本明という僧によってつくられた一字一石経塚であることがわかる。
桜渓塾(市指定)
桜渓塾(市指定)

 桜渓塾は嘉永4年(1851)阪谷朗廬が若者たちの人材育成をめざし、伯父・山鳴大年の協力を得て簗瀬の桜渓に開いた塾で、朗廬を訪ねて全国各地から漢学者、志士たちが集まった。嘉永6年(1853)一橋代官所江原役所は一橋藩立郷校設立のために阪谷朗廬を招き一校を設けた。翌年興譲館と名付けられ、以来140年の伝統を誇る現在の興譲館高校(井原市西江原町)がこれである。朗廬は初代館長として15年間子弟の育成にあたり、多くの人材を世に出した。大正2年(1913)桜渓遺跡保存会によって記念碑設立、草盧補修、園庭植樹が行われ、興譲館の子弟教導の地として保存されており、また周囲は平成5年に桜渓塾跡公園として整備された。

正霊山城跡(市指定) 正霊山城跡(市指定)

 標高約50mの独立山。本丸跡は東西55m、南北15mの回字形。聖霊神社を祀る。搦手側は小田川北に二重の空壕(手抜堀)があり、武者走り礫石を蓄えた土倉の跡などがある。室町時代末。藤井好重が築城、子の藤井皓玄が受け継ぐ。
重玄寺跡(市指定)
重玄寺跡(市指定)

 重玄寺は嘉吉元年(1441)に足利将軍家の請願により公方祈願寺として建立された臨済宗仏通寺派の禅寺である。開祖千畝周竹は近衛家ゆかりの宝物を多数今日に伝えている。また重玄寺は画聖・雪舟終焉の場所と伝えられ、多くの文献にその記載がある。(『東福寺跡』、『吉備物語』、『古画備考』、『備中集成志』等その他多数)雪舟筆と伝えられる絵画のほか、雪舟のものと目される供養塔、庭園跡などが残る。創建以来数度の火災に遭い、天正年間(1573〜92)に焼失した際には豊臣秀吉が方丈を寄進したと言われるが、昭和30年鐘楼門と土蔵を残して再び全焼した。現存の重玄寺は西吉井篠原にある。

朗盧ほか四先生の生家(市指定)
朗廬ほか四先生の生家(市指定)

 阪谷家(現在は坂田家)は、幕末から明治初期にかけて、多くの学者、名士を輩出した。邸内には朗廬先生の詩碑、五先生産湯の井の碑が建立されている。
[朗廬先生] 文政5(1822)年〜明治14(1881)年 儒学者 教育者、特に興譲館の設立者として有名である。元大蔵大臣阪谷芳郎子爵はその四男である。
[待園先生] 天保6(1835)年〜明治23(1890)年 朗廬の甥、西洋医学を学び玉島において開業し医業の傍ら西洋医学を教授した。
[警軒先生] 天保10(1839)年〜明治32年(1899)年 待園の弟。朗廬の後をついで興譲館の第2代目館長となる。後に初代の県会議長、衆議院議員等を歴任した。
[雪華先生] 安政4(1857)年〜昭和4(1929)年 警軒の弟、慶応義塾を卒業して、その講師となる。後に日本銀行に入り出納局長、支店長を歴任。豊国銀行を創立してその頭取となる。
[九峰先生] 慶応元(1865)年〜昭和6(1931)年 待園の長男。帝大医学部を卒業後、第三高等中学校医学部教官、ドイツ留学、明治37年岡山県第一号の医学博士。

小笹丸城跡(市指定) 小笹丸城跡(市指定)

 小笹丸城は、標高390m・比高90mの丘陵に位置する。戦国期の村落領主クラスの詰めの城であると考えられ、大規模な石垣などはないが、土の造形によってきわめて綿密なプランによって築城されたと考えられる。城域は、東西に150m、南北に120mを測り、主郭・曲輪・土塁・竪堀・虎口・武者隠し・井戸などが創出されている。創築年代は不詳であるが、大永年間(室町時代)には竹野井市朗衛門尉が、天正3(1575)年には竹野井常陸守氏高・竹野井叉太郎春高が居。
内藤中心の墓(市指定) 内藤中心の墓(市指定)

 内藤中心は原姓藤原、通称三左衛門。元文5(1740)年土佐藩士として高知に生まれた。山林の吏として藩公に仕えたが、天明の末、官を辞め、当地に移り住んだ。30年の間、歌学に励むかたわら、後進の指導に努め門人の数は千人を超えたという。歌風は万葉調を重んじ、これを普及した功績は大きく、近世吉備歌壇史上特筆されるものがある。文化14(1817)年12月18日当地で没したが、生前桜と古刀を愛し、涯号を桜の舎といい、歌集『桜の屋集』は後に門人が編んだものである。生涯の詠歌は実に四万を超えた。ちなみに墓所の碑文は昌谷精渓によるものである。
五万原遺跡(市指定) 五万原遺跡(市指定)

 弥生後期(特に3世紀〜4世紀)の竪穴式住居跡で、昭和40年12月、42年8月の2回にわたって発掘し、第3号住居跡を43年3月に復元した。さらに付近一帯にも埋もれた住居跡があることが推定され、当時の生活様式やこの地域の歴史を知る上で貴重な学術資料である。この住居跡からは、壷、高杯、鉢、石鏃などの遺物が数多く出土した。
黒木の高札場(市指定)
黒木の高札場(市指定)

 法度、掟書など犯罪人の罪などをしるした高札を掲げる場所を高札場という。一般に高札は、交通の多い市場や辻などに掲げ、庶民の間に法令を徹底させることを目的とした。中世末期から起こり江戸時代にもっとも盛んとなり明治3(1870)年に廃止された。この高札場のあるところの字は札場という。江戸時代後期の建設と推定されるが、年月日不詳。柵の中に柱を立て、横桟を渡し、雨覆の屋根を設けている。間口1.37m 奥行、0.93m。
金黒山城跡(市指定) 金黒山城跡(市指定)

 金黒山城跡は本丸、二の丸、三の丸、四の丸からなり、本丸の周囲にある土塁、井戸などの遺構や本丸の北側には三段からなる空濠(方薬研)が残っている中世の山城である。天正2(1574)年12月27日 城主三村為親の時、小早川勢の侵攻により落城したといわれる。築城年月日 不詳。 築城者不詳。
金定古墳(市指定) 金定古墳(市指定)

 集落に近い地点にある古墳としては、保存状態がよく、古墳時代後期の横穴式石室の典型的なもので、1400年ほど前から集落が成立し、それを束ねるような有力者がいたことがうかがえる。石室長5.3m、幅1.3m、石室奥から天井石3枚が残っている。墳丘内からは2個の須恵器が出土しており、この古墳の優秀さを物語っている。時代は須恵器からも6世紀後半と推定される。なお、出土した須恵器、器台及び台付壷も町指定重要文化財に指定されている。
塚原古墳(市指定) 塚原古墳(市指定)

 古墳時代後期の横穴式石室の典型的なもので、1400年余り前からかなりな集落が成立し、それを束ねるような有力者がいたことを物語る貴重な史跡である。
三村氏屋敷跡(市指定)
三村氏屋敷跡・土塁遺構(市指定)

 東西に延びた台地の南に、南北50m、東西30mばかりの平坦な低い台地状の畑地がある。ここを城の内と呼んでいる。その東端に土塁が36mばかり南北方向に残っている。土塁の東側は一段低い平坦な段となり、南側にも同じような段が見える。西側の一段低くなった所は、堀の内とよばれている。北側の台地上や東側の墓地に残る粒上石灰岩の五輪塔部材は、中世の墓地が付近にあったことを知らせ、その中に見られる大ぶりのものは、地方有力者のものと思われる。