「市史を読む会」の風景


  井原市立図書館の講座のひとつです。
  毎月第3土曜日の13時30分から、井原市立図書館の3階研修室で行っています。
  文化課市史編さん担当の首藤研究員が担当しています。
  市史の史料編(第3〜5巻)から題材を取り上げ、参加された方々といっしょに現物の史料を読んだり、
 関連する出来事を探ります。



平成24年8月18日(土)
第110回
「永祥寺の資料を読む」


 西江原町の永祥寺は嘉慶元年(1387)に、那須資道・資英父子が総持寺2世峨山韶碩(がざん・じょうせき)の高弟であった実峰良秀(じっぽう・りょうしゅう)を招き開かれた曹洞宗の寺院です。
 今回は、同寺の中世文書(写)を読んでみました。


(翻刻した中世文書)



平成24年7月21日(土)
第109回
「井原の人びとと犬養毅の交流」


 今年は犬養毅没後80年にあたります。大正時代の史料を読みました。総理大臣在職中に青年将校に撃たれ死去した犬養は生前「憲政の神様」と称され、県下では絶対的な影響力を持っていました。


(大正5年に井原町で演説する犬養と聴衆)



平成24年6月16日(土)
第108回
「かな文字を読む〜俳諧の連歌集『青筵』を読む」


 私達が親しんでいる俳句はあまりむずかしい決まり事はありませんが、その元となった俳諧の連歌にはたくさんの決め事がありました。5句目は必ず月を歌いこむなど。
 連歌集『青筵』より具体的に一巻(36句)を読んでみました。


(『青筵』岡山県立図書館蔵)



平成24年5月19日(土)
第107回
「嘉永3年の種痘実施と井原」


 芳井歴史民俗資料館で開催していた企画展「医家・内田家の系譜」に合わせて内田家文書をを読みました。
 嘉永3年(1850)に緒方洪庵より種痘の知識を得た井原の医師たちはこの地方で種痘を実施しました。


(疱瘡除けの赤絵・個人蔵)



平成24年4月21日(土)
第106回
「井原とその周辺の歌人・国学者」


 文化財センターの春の企画展と合わせて、この地域の歌人である内藤中心と、黒坂昌芳を紹介しました。
 師弟関係をたとえるとそれぞれ加茂真淵や本居宣長にたどり付きます。


(鳥頭にある内藤中心の墓)



平成24年3月17日(土)
第105回
「災害の記録と被災資料の救出活動」


 今回は井原地方における大正時代の台風被害の新聞記事を紹介しました。大正時代後半は毎年のように続く小田川氾濫により被害が出ていました。


(大正9年に半壊した新橋)



平成24年2月18日(土)
第104回
「江戸時代末の旅日記をよむ」


 今回は安政6年3月に西江原の簗瀬屋義兵衛が宮島へ参詣した時の旅日記を読みました。かな交じりの文をみなさんに読んでもらいました。


(義兵衛が旅した行程)



平成24年1月21日(土)
第103回
「江戸時代の藺草・畳表作り」


 近年はすたれてしまいましたが、戦後すぐから1960年代にかけて岡山は全国有数の藺草の産地でした。今回は江戸時代の一橋領における生産量や収益などを記した史料を読みました。


(井原市史V掲載の藺草に関する史料)



平成23年12月17日(土)
第102回
「芳井の寺院の歴史」


 芳寿大学で毎年話をさせていただいており、その中の一部を「読む会」でも紹介しました。一般的に最も寺院が増えたり復興したりした時期は中世であったといわれますが、芳井にもこれが当てはまりそうです。特に浄土真宗と日蓮宗の影響が大きく、両宗派の寺院数が増えたのが芳井の特徴です。


(片塚・融玄寺にかかわる書状)



平成23年11月19日(土)
第101回
「小田川の護岸施設と通船」


井原市図書館が工事のため休館中なので、今回より3回は井原市文化財センターで「読む会」を行います。文化財センター秋季企画展で展示している資料の解説を中心に行いました。参加者のみなさんが絵図などを熱心に見てくださり、質問もたくさん受け楽しい会になりました。


(七日市の花野に造られていた猿尾)



平成23年10月15日(土)
第100回
「高屋の本草学者 中村耕雲の活動」


  今回は高屋出身で幕末に活躍した本草学者、中村耕雲を取り上げました。本草学者としての彼の活躍は、安政年間(1854〜60)に凝縮されていると言えます。耕雲の豊富な知識を必要とした友人たちが彼に活躍の場を与えました。耕雲もこれに応え石見銀山の鉱毒除去や日向国の飫肥藩の産物開発に貢献しました。


(中村耕雲の書翰下書)



平成23年9月17日(土)
第99回
「江戸時代における平井一族の早雲顕彰活動」


  備中伊勢氏の家臣である平井家は、本拠地である森(森谷)地区に伊勢氏を祀る供養塔や神社などを建立しています。今回は伊勢盛定・盛時供養塔と備中伊勢氏の末裔とされる又千代の供養塔が天保年間(1830〜44)頃に建てられたいきさつを探っていきました。


(平井家墓地に残る2基の供養塔)



平成23年8月20日(土)
第98回
「井原の地名考 その3 〜上出部町・七日市町・下出部町・笹賀町〜」


 出部地区は、古代の条里制の跡が残っていたり、中世には武速神社の前で三斎市が開かれていたりと、古い時代の足跡をたどることができる地域です。この度はそのような歴史を示す地名や、水の通り道があったことを示す地名などを確認しました。


(武速神社南部に広がっていた伊達屋敷)



平成23年7月16日(土)
第97回
「新しい“阪谷朗廬”像の紹介」


  今回は、首都大学東京の准教授の河野有理氏が出版された『明六雑誌の政治思想 阪谷素と「道理」の挑戦』(東京大学出版会、2011年3月刊)の紹介をしました。  東京へ上京後の郎廬は、儒学者として、「道理」普遍主義の立場を崩さず、「明六雑誌」上に盛んに論文を発表しました。この点を著者は高く評価しています。


(書籍『明六雑誌の政治思想)



平成23年6月18日(土)
第96回
「明治・大正時代の旧旗本池田家と井原」
        


 今回は、江戸時代に井原村や宇戸川村を領知としていた旗本池田家が明治時代以降に井原とどのようにかかわっていたかを紹介しました。例えば、明治39年に当時の当主池田長世が井原を訪れており歓迎会が開催されています。また、大正時代には池田長発への贈位奉告祭が井原で開催されました。


(池田長世の来井を知らせる廻状)



平成23年5月21日(土)
第95回
「平がな文字を読んでみよう!    
       〜大江・長沢神社の扁額〜」


  宝暦11年(1761)に、「雑吟集」の扁額が長沢神社に奉納されました。“雑吟”の中でも「前句」をあらかじめ複数出しておき、適切な「付句」を創作していく“前句付”が催されたようです。扁額には、井原、笠岡、福山の人びとの名前が確認できます。


(神社に奉納された扁額)


平成23年4月16日(土)
第94回
「幕末の動乱と井原 B 〜麻田藩領の明治維新〜」


  麻田藩(外様大名の青木氏、1万2000石)は摂津国が本拠地ですが、備中国にも10ケ村の所領がありました。維新後も明治4年(1871)7 月に実施された廃藩置県までの間、大小参事以下の新しい役職を置くなどして、新政策の推進に努めました。




(明治2年、備中国領地が殿様へ3千両献上)


平成23年3月19日(土)
第93回
「村明細帳からみる村の様子〜井原・芳井・美星〜」


  江戸時代の村の様子を伝えてくれる史料のひとつとして「村明細帳」があります。領主の代替わりや役人の巡見などの時に作成、提出されました。石高、面積、家数、人数、田畑、河川、名所旧跡などの情報が読み取れます。


一橋領の「村々様子大概書」より「七日市駅」


平成23年2月19日(土)
第92回
「幕末の旗本池田家領の上知」


  井原村や片塚村などに領地を有した旗本池田家の当主長発(ながおき)は、文久3年(1863)の遣欧使節の目的を果たさず帰国し、謹慎隠居が命じられました。さらに領知半分の召し上げが言い渡され、これに対処するため地元の陣屋役人は東奔西走しました。


(文久3年の遣欧使節正使の池田長発)


平成23年1月15日(土)
第91回
「祭礼をめぐる争い 〜村人・神職・僧侶〜」


 今回は祭礼をめぐる争いをとりあげました。
 祭礼は神職だけでなく由緒・因縁によって村人や寺院の僧侶も密接にかかわっていました。それぞれの立場からどんな主張がなされたのかを、幾つか史料から見ていきました。


(文政5年の門田村徳次郎の詫び書)


平成22年12月18日(土)
第90回
「戦前の井原の道」


 今回は、中世から近代にかけての井原とその周辺の道に関連する地図や史料をみました。
 明治時代からすでに、南北に通じる主要な幹線道路は井原と笠岡を結ぶ「笠岡往来」でしたが、明治34年に町制を施行した金浦も高屋―金浦を結ぶ「高屋往来」や「笠岡往来」の途中から金浦へ向かう道の改修に努めており、笠岡へ対抗していたようです。

(『新市町史』より抜粋・中世の市がつく地名)


平成22年11月27日(土)
第89回
「芳井町重玄寺の由緒と歴史」


  11月には雪舟にゆかりのある6市町が集う雪舟サミットが井原で開かれました。これにちなんで雪舟終焉の地の由緒をもつ重玄寺の中世の歴史を紹介しました。
 臨済宗仏通寺派・重玄寺の開基は、足利直冬(ただふゆ)の孫にあたる義将(よしまさ)ですが、開山の年とされる嘉吉元年(1441)に嘉吉の乱に巻き込まれ討ち死したともいわれ謎が残ります。

(最初に寺が開かれた天神山の跡地)


平成22年10月16日(土)
第88回
 「国民文化祭にちなんだ史料を読む
―上野耐之(たいし)さん―  」


  秋の国民文化祭に井原で子守唄フェスティバルが開催されたことにちなんで、「中国地方の子守唄」の元唄を作曲家山田耕筰に紹介した、高屋町出身のテノール歌手上野耐之さんの履歴を紹介しました。
 成城学園初等科の教師であった時期の音楽教育に関する耐之さんの論文を読みました。教師としても情熱あふれる方だったようです。

(昭和6年のイタリア留学頃の上野耐之)


平成22年9月18日(土)
第87回
 「西江原藩と関衆利(せき・あつとし)」


  西江原藩は、元禄10年(1697)に津山藩の森家が断絶となった後、2代目藩主であった隠居長継へ隠居料2万石相続が許され出来た藩です。西江原周辺の村々が領知でした。
 森家断絶を招く事件を起こした関衆利は、西江原で幽閉され宝永2年に死去したと伝えられています。
 今回は市内の長継・衆利ゆかりの場所を紹介しました。


(森家2代長継から5代衆利まで)


平成22年8月21日(土)
第86回
「奥田諫山と興譲館」


 奥田諫山は、坂田警軒が興譲館を去って後、校長代理として興譲館の経営に尽力した人物です。この度は『諫山遺稿』から、彼の人となりを伝える文章を読みました。
 英語科や数学科を履修課程に新設しながらも、彼自身は漢学の研究に打ち込み、生徒に熱心に教授した人物であったようです。

(写真は『諫山遺稿』上巻)


平成22年7月17日(土)
第85回
「後月郡の醤油(しょうゆ)醸造と流通」

 戦前の後月郡(旧井原市と旧芳井町)には、酒や醤油の醸造元がたくさんありました。
 岡山県全体の醸造量も多かったのですが、後月郡の醤油は広島県側に販路を伸ばしたようです。市内の旧街道を歩けば、元醸造元や現在も製造を続ける店舗に行きあたります。

(写真はある店舗内部の様子)


平成22年6月19日(土)
第84回
「西江原の『文明開化』と文化人」


  明治、大正、昭和時代の西江原村の文芸活動の歴史を速足で振り返りました。
 文明開化期の結社「一新社」、明治25年頃から発刊された文芸雑誌『筆團雑誌』、俳句の「落帽会」、そして敗戦直後に創刊された文芸雑誌『文化しつき』などを紹介しました。
 初参加の方も含め14人の参加者がありました。

(写真は井伏郁太らが発刊した『筆團雑誌』)


平成22年5月15日(土)
第83回
「農学書・川合忠蔵著『穂に穂』を読む」


   大江村出身で、京都で儒学者として活躍した川合忠蔵(仲象)の著した『一粒万倍 穂に穂』を簡単に紹介しました。平仮名交じりで漢字には読み仮名が振られており、比較的読みやすい本です。
 序文と本文(一部)をみなさんに読んでもらいました。前後の文のつながりを考えると、読めない字も検討がつくテキストです。

(写真は『穂に穂』最初のページ)


平成22年4月17日(土)
第82回
「古文書にみる江戸時代の井原市中(しちゅう)の様子」


  嘉永7年(1854)に旗本池田家の井原陣屋が領下にくだした「御趣意申渡書」を読みました。この頃の井原の「町方四町」は「往古より市場」だから、表通りに出来るだけ店を出すよう呼びかけられるなど、面白いことが書かれてあります。 質屋、米穀商、「日雇」「仲士」「馬方」、豆腐商やこんにゃく商など、色々な商売名も出てきます。

(写真は大津寄家文書の嘉永7年「御趣意申渡書」)




平成22年3月20日(土)
第81回
「鞆の浦と保命酒屋」

  同じ3月に、教育委員会主催の歴史講座で「坂本龍馬と鞆の浦」というテーマでの講演を計画していたので、今回は福山の鞆の浦にかかわる史料を読みました。江戸時代に保命酒を開発、独占的に販売していた中村屋さんの史料です。 (写真は、福山市鞆の浦歴史民俗資料館2007年特別展図録より転載の港風景)



平成22年2月20日(土)
第80回
「井原の地名考 その2 ”旧井原町”を中心に」

  今回は小字名から歴史を考えるということで、井原小学校区となる旧井原町の地名について小字図と江戸時代の絵図を比較してみました。
 「町場」となった村らしく、神社や堂・祠にかかわる小字や、目印となる木の名をつけた小字名があったりと、地域の特徴がよく出ています。


(写真は、美しい井原村絵図)


平成22年1月16日(土)
第79回
「芳井町域の山城について」

  今回は『井原市芳井町史』に依拠しながら芳井町域に点在する中世の山城のスライドをみていきました。
 具体的には雄瀬山城(与井)、正霊山城(吉井)、中山城(川相)、井戸橋城(下鴫)、小屋ノ山城(種)などです。
 縄張りと防御施設を中心としたスライドでしたが、みなさん熱心にみてくださいました。


(写真は、高台全体が城跡の可能性もある
高原(たかわら))


平成21年12月19日(土)
第78回
「石見銀山と高屋」

 江戸時代に石見銀山で産出された銀の運搬には、尾道へ通じる「石州銀山街道」が利用されました。
 しかし高屋宿を「石州御銀」が通過したことが確認できるので、この場合は途中で「石州道」を進み、「西国街道」(近世山陽道)へ入ったと考えられます。
 今回はこのルートをみていきました。


(写真は「石州御銀」について記した史料)

           

平成21年11月21日(土)
第77回
 「江戸時代の山の管理と林業 −山野上村の場合−」

 今回は、江戸時代の山の管理について山野上村の史料をみていきました。
 と言っても、正確な面積、伐木の様子、薪や柴草の採取量など、分からないことの方が多いのです。村では天保15年頃、共有林を切り開く開墾が進み、田畑の肥料にする柴草が不足するという困った事態となっています。地所確保の面でも肥料確保の面でも限界まで、当時の新田畑開発が進んだようです。



平成21年10月17日(土)
第76回
 「児島郡福田新田の開発と山成家」

 今回は、新田開発により出来た児島郡南畝村の田畑を、簗瀬村の山成家が幕末に購入した際の史料を読みました。
 短期間で転売される間に値段はつり上がり、山成家は相当な高値で5町余りを購入しました。また一筆ごとの耕地面積は1町前後が単位ですが、耕地の狭い後月郡では考えられないことです。この史料は『井原市芳井町史 史料編』で紹介しています。


           

平成21年9月26日(土)
第75回
「井原の地名考 −門田町と西江原町を中心に−」

 今回は、2つの町の古い時代につけられた小字名の由来をとりあげました。
 西江原町については、歴史的地名を中心にみていき、門田町については歴史的地名とあわせて災害が起こった場所につけられる、いわゆる災害地名をとりあげました。
 小字名からだけでも、2つの町の歴史の特徴がうかがえます。今度は井原町の小字をとりあげてみようという話で会は終了しました。



(写真は 門田町の金剛福寺本堂)

平成21年8月8日(土)
第74回 
「備中一橋領の切手札の発行」

 今回は、幕末の備中一橋領で発行された切手札にかかわる史料を読んでいきました。
 切手札が発行されることで、領内の正金が産物会所に集められ、そこから各所へ貸し出されたり、切手札を媒介にして領内の産物が販売されたりしていたようです。
 産物会所で付けられた「惣勘定」を読みましたが、昔の金銭勘定の解読はむずかしいです。               



(写真は 元治2年の「産物会所惣勘定」)


平成21年7月18日(土)
第73回
「近年の歴史もの雑誌にみられる早雲像」

 平成17年頃から、法泉寺所蔵の北条早雲像の画像を利用させてほしいという出版社からの依頼が増えており、毎年2、3回文化財センター所蔵の写真ネガも貸し出しに出ています。この時に送られてくる雑誌(例えば『週刊ビジュアル 日本の合戦』など)から、近年の早雲のイメージをみていきました。
 すでに荏原荘領主の伊勢盛時が早雲であること、政敵に対する奇襲は京都の政変と連動したものであったことなど定説となりつつあるようです。
               


  (写真は『井原市の文化財』より「摺り袈裟」)


平成21年6月20日(土)
第72回
「宮原木石の足跡 −企画展から−」

 今回は、井原市文化財センター春季企画展でとりあげた宮原木石さんの手紙を読みました。木石さんは幕末に、幕府の外国貿易・海防御用の役人として活躍した人物です。
 当日は、大江村の亡き兄の遺児のために木石さんが心を尽くした様子を、書状から読み込んでいきました。

              (写真は宮原木石、ふさ夫人)
宮原木石ふさ夫人


平成21年5月16日(土)
第71回
「(美星町)堺村役場文書整理の成果」

 今回は、平成19年8月に井原市文化財センターが調査、搬出をした堺村役場文書の一部を紹介しました。堺村は星田村・西水砂村・黒木村が合併してできた村で、明治23年から昭和29年までの村の呼称です。
 当日は公文書の整理作業の一環として、堺村役場が作成した「村是」や畜牛の記録、昔の絵図などを参加者にみてもらいました。

(写真は「村是」と「産牛組合」にかかわる史料)

村是産牛組合

平成21年4月18日(土)
第70回
「寺子屋の教えと教科書」

 今回は、寺子屋で使われた教科書を何冊か紹介しました。寺子屋では、最初に数字やいろはを、次に名字や村名に使う字や手紙の書き方を学び、次いで「童子教」「女大学」などを習いました。
 当日は「入学」「三郡村名」「遣贈表記」「近道小宝」「童子教」を読みました。

(写真は「三郡村名」「近道小宝」の1ページ)

三郡村名近道小宝


平成21年3月21日(土)
第69回
「大正11年開催の中国産業文化博覧会」

  大正11年(1922)に井原町長へ就任した小川豊三郎は、歴代町長の宿願であった博覧会を、就任後初の大事業として開催しました。
  5月5日から10日間で3万2000余人の入場があり(当時の町民人口7000人余り)、鉄道利用客も大勢で大成功に終わりました。

(写真は、博覧会中の「美術館」となった井原キリスト教会)


               

平成21年2月21日(土)
第68回
「江戸時代初期のたくさんの枝村」

  今回は正得年間の「備中国絵図」から、後月郡の部分を取り出して、観ていきました。
  当時は領主が年貢を取るために把握していた村の中に、地元の人たちの生活にそくした村が幾つもありました。
  例えば天神村の中に「和田村」が、吉井村の中に「あか村」、木之子村の中に「有通村」があったという具合です。今は、現地も特定できない村もあります。

(写真は、上出部村を「本郷」と称する、「当村」(=七日市)の「村方明細帳控」

               



平成21年1月17日(土)
第67回
「大山澄太と種田山頭火」

  自由律俳句の代表的歌人である種田山頭火は、昭和10年(1935)に一度だけ井原を訪れたことがあります。
  井原の俳人たちと山頭火を結びつけたのが、井原町出身の大山澄太さんでした。澄太さんは若い失意の時期に、結婚、俳句や禅との出会いといった重要な転機を迎えました。この時期を乗り越えて山頭火と出会い、戦後は山頭火を広く世に知らしめました。
               


(写真は、大山澄太氏発行の雑誌『大耕』)


平成20年12月20日(土)
第66回
「幕末の動乱と井原 そのB」

  今回は、井原騒動(64回で紹介)発生後の後始末の様子を見ていきました。
  井原陣屋では、すぐさま岡山池田藩へ関係者調査のための役人派遣を願い、あわせて困窮者の要望取調べに取り掛かりました。その要望は「七ヶ条の歎願」にまとめられました。
  また騒動から七ヵ月後に首謀者たちに処罰が下りましたが、いずれも減刑されていました。

(写真は、「七ヶ条の歎願」などが入っていた袋)



平成20年11月15日(土)
第65回
「明治・大正・昭和の都市計画」

  「都市計画」という言葉には新しい響きがありますが、すでに大正8年(1919)には都市計画法が制定されており、高屋町も昭和16年(1941)に都市計画法適用を申請しています。
  今回は、明治時代の井原町の「記念通り」建設、大正時代の芳井町の「佐原裏通り」建設、昭和20年代の高屋町の都市計画事業を紹介しました。


(写真は、大正14年の井原町の地図)


平成20年10月13日(土)
第64回
「幕末の動乱と井原 そのA」

  今回と次々回(66回)にわたって、慶応2年12月晦日に発生した井原騒動にかかわる史料を読みました。
  慶応2年には、第2次長州出征や不作により前代未聞の物価高となり、施し米をしない高利貸しや豪農が襲われる「世直し一揆」が起こりました。井原の市中でも、年越しできない人々が掛屋宅などで暴れました。


(写真は、騒動を間近で見た庄屋らの注進書)


平成20年9月20日(土)
第63回
「阪谷朗廬の建白書を読む       
      −慶応4年(明治元年)2月の草案−」

  今回の史料は、国会図書館の憲政資料室が所蔵する「阪谷朗廬文書」から、慶応4年2月に書かれた朗廬の建白書を取り上げました。
  内容は、徳川家の進むべき道を具申するもので、今後、天下の大権は合議公平により定まるのだから、天朝へ謝し、領地の多くを返すように述べています。
  一橋家の代官所が芸州鎮撫台に接収されて1週間余りで、一気に書かれたと思われ、朗廬の真剣な気持ちが伝わってきます。

(写真は、建白書の一部)


平成20年8月30日
第62回
「幕末の動乱と井原 @         
    −長州出征による高屋宿の混乱−」

  今回は、江戸幕府の崩壊を決定づけた長州出征(1864年、1866年)にかかわる史料をとりあげました。 
  第1次長州出征(1864年)のため近世山陽道を幕府軍が通過すると、高屋宿はその対応に追われました。このため、幕府軍の帰途にあわせ、助郷 (宿周辺の村が宿へ人や馬を提供し、宿泊・輸送を助ける仕組み) を定めるように、高屋宿は代官所へ願い出ました。
  助郷は認められませんでしたが、小田郡ほか3郡の村々が、諸経費の一部を負担することとなりました。


第2次出征時の七日市宿への助郷申し付け達

平成20年7月19日
第61回
「明治時代の『大物』政治家」

 今回は、当時の井原町の瀧本丈太郎と出部村の原田吉平という「大物」政治家をとりあげました。
 特に原田吉平さんは、笠岡町長時代に収賄疑惑で逮捕されながらも、無罪として釈放、後に再選され復活しました、その後も井原町長、吹屋町長に就任するなど、手腕を振るいました。


明治時代後半の井原町
右端に中備製糸会社、左端に(現)井原小学校がみえる。


平成20年6月1日
第60回
「江戸時代の赤ちゃん"捨て子”の話」

 今回は、女性史研究者の沢山美果子氏の最新書『江戸の捨て子たち』をテキストに使いました。この本に門田村と井原村での事例が紹介されています。
 参加者からは、捨て子をめぐるドラマを感じた、子供を生かすための捨て子だったなど、活発な意見がありました。
 史料は、門田村庄屋の佐藤哲二が捨て子発見を届け出たものです。後に哲二さんは、この子を引き取りました。



平成20年5月17日
第59回
「井笠鉄道沿線の写真と今」

 今回は、スライドを使い、市史編さん事業で集めた40年前の井笠鉄道の写真を紹介しました。あわせて現在の写真も取り混ぜて、景観の違いをみていきました。撮影者が知らない部分も参加者が説明してくださり、高屋川にかかる橋の位置や井原駅からの軌道が判りました。

   
 高屋川をわたる鉄橋と列車   昭和通りを横断する踏み切りと列車


平成20年4月19日
第58回
「幕末の井原地方の医師と種痘」

 江戸時代の一橋領では、嘉永3年(1850)に、足守出身の緒方洪庵の教えを受けた医師たちが中心となり、領民への種痘が実施されました。明治2年(1869)には、後月・小田郡の医師31人が学術研精琢磨のための「盟約書」を結びました。この地方では新しい医術を学ぶ意欲に溢れる医師たちが多かったようです。

 写真は、嘉永3年の「種痘養生心得書」です。


平成20年3月15日  13:30〜15:00
第57回
「森近運平について」

  今回は、1911年に冤罪で死刑に処された森近運平の手紙を読みました。この手紙は1902年、岡山県庁を辞職する直前に、24歳頃の運平が書いたものです。社会主義運動への情熱と一体に、若者らしい性急さも表れた手紙といえます。


平成20年2月16日 13:30〜15:00
第56回
「江戸時代の法泉寺日記を読む」

  「法泉寺日記抜写」の翻刻を読みました。天明3年(1783)の三光寺(木之子村)の住職交代の式(「晋山の式」)を中心にみました。たくさんの手順がふまれており、全て禅宗の専門用語で書かれてあるので、少しずつ読んでいきました。

写真は 「晋山の式」の着席表です。



平成20年1月19日  13:30〜15:00
第55回
「明治時代の後月郡の独立運動」

  明治維新以後の岡山県には31の郡がありましたが、小郡が多かったので、郡の合併が目論まれていました。明治31年(1898)12月に、後月郡の小田郡合併を盛り込んだ「郡分合法案」が帝国議会に提出されたため、井原町の有志たちが独立維持のため活動しました。


後月郡独立運動に尽力した人々


平成19年12月15日  13:30〜15:00
第54回
「幕末巡見使の接待の記録」

  江戸時代には、将軍の代替わりなどに巡見使が諸国に遣わされた。今回は、天保9年(1838)の最後の巡見に関する史料を読みました。「火取り」「岩石卵」「かくや漬け」といった接待料理のメニュー一覧から、どんな料理か考えました。

写真は、献立が書かれたページの一部です。



平成19年11月17日  13:30〜15:00
第53回
「戦前の女性たちの活躍」

 今回は、弘化2年(1845)生まれの出部村の佐藤つるさんと、明治29年(1896)生まれの稲倉村の妹尾小鶴さんをとりあげました。つるさんは明治時代に「孝女」として知られた女性、小鶴さんは大正時代から教師、婦人会、市会議員として活躍した女性でした。

写真は、左が佐藤つるさん(『後月郡誌』)
右が妹尾小鶴さん(『井原市史 X』転載)です。

   


平成19年10月20日  13:30〜15:00
第52回
「江戸時代の分郷村のこと         
    −備中国後月郡木之子村の場合−」

  備中地方には、ひとつの村を複数の領主が分けて領有する相給支配が多くみられます。木之子村も旗本高山氏と幕領の相給ですが、旗本領が地味のよい土地をとっていたため、後に再分割されました。

写真は再分割後の絵図です。



平成19年9月15日  13:30〜15:00
第51回
「明治時代の農業のこと」

  明治時代に日本の農業技術は大きく発展しました。最初にすぐれた技術を伝えたのは、「老農」と呼ばれた人々で、しだいに農会に附属する農事試験場で開発された技術が、農会を通じて広められていきました。県や町村の農会にも技師が置かれ、技術普及や指導に力を尽くしました。



『後月郡農会40年誌』で紹介された稲の品種

平成19年8月18日  13:30−15:00
第50回
「井原の弥生時代ー銅鐸とその時代ー」

右の写真は高越遺跡の調査風景です。
   


平成19年7月21日 13:30〜15:00
第49回
「嘉永2年の木綿交易入札興行」

  この年に、旗本池田家の領民により木綿交易のくじ引きが計画されましたが、西江原代官所から注意されたためか、中止されたようです。交易振興をめぐって、隣接する両村間、両領地間では幾度か衝突が起こっていました。


平成19年6月16日  13:30〜15:00
第48回
「大正時代の織物業と従業員」

  戦前の井原・高屋・西江原・出部・芳井・木之子の村々には、織物工場が幾つもあり、特に大正時代に大きく発展しました。個々の工場では、従業員の待遇改善が重要な関心を集めており、株主となる特典や収益配当が実施されました。


平成19年4月21日 13:30〜15:00
第46回
「明治初年の朗廬・警軒の建白書」

  現井原市域出身の儒学者として有名な朗廬・警軒が、政府や上役などに意見を申し立てた建言書をとりあげました。
  朗廬は、一橋慶喜へ提出した「提示上言」ほか、広島藩仕官時代の建言書など多数あります。警軒は「学事愚案之大意書」くらいしか見当たらなかったので、これを紹介しました。


平成19年3月17日 13:30〜15:00
第45回
「法泉泉住持跡目争いの史料を読む」

  伊勢盛時が開いた法泉寺は、江戸時代以後も30か寺の末寺を抱える曹洞宗の古刹でした。寛文10年(1670)に、跡継ぎ住職をめぐる争いが、隠居住職、末寺住職、檀家などの間に起こりました。今回は、この一件にまつわる平井家の史料をとりあげました。


平成19年2月17日 13:30〜15:00
第44回
「大正期・昭和初期の政党と井原」

  明治時代以降の岡山県では、犬養毅の影響力が強く、後月郡も例外ではありませんでした。この回では、犬養がいったん政界から引退した昭和2年(1927)の岡山県会議員選挙の後月郡内の様子をとりあげました。政友会(犬養側)と民政党が激しく対立した様子が確認できます。
 


平成19年1月16日 13:30〜15:00
第43回
「芸州鎮撫台到来の史料を読む」

  慶応4年(1868)1月に鳥羽伏見の戦いが勃発すると、山陽道地域は岡山藩と広島藩(芸州藩)が鎮撫の役目を官軍から命じられました。西江原村には、一橋家領の代官所があったため、「芸州鎮撫台」が1月27日に代官所へ到着しました。阪谷朗廬が応接しました。
 


平成18年12月16日 13:30〜15:00
第42回
「昭和6年頃の日記・年中行事」

 昭和7年(1932)作成の「稗原上組年中行事」の史料や、昭和13年の芳井町の少年団の活動報告を読みました。
  満州事変が起こった翌年の昭和7年には、まだ戦争にかかわる行事が少なく、のどかな祭日の様子が伝わりますが、13年の少年団活動には出征家族慰問や神社掃除など、戦争にかかわる行事が幾つもはいってきました。
  


平成18年10月21日 13:30〜15:00
第40回
「坂田警軒の県会議員辞任と三宅栗夫」

  明治10年代の自由民権運動において、岡山県の有志全国に先駆けて国会開設の建言を政府に提出しました。この会開設運動の中枢となったのが岡山県会で県会議長を務めいた坂田警軒は、建言書提出直後に議長、議員を辞職しました。
今回は、警軒辞職を伝え聞いた地元有識者の動揺を伝え書状と、補欠選挙で当選した三宅栗夫をとりあげました。(首藤)
  


平成18年9月16日 13:30 〜 15:00
第39回
「『太平記』を読む」

  中世史料の中から軍記物『太平記』をとりあげました。
  元弘の変から観応の擾乱まで、井原市域の武将たちがどのような活躍をしたのか、市史を読みながら説明しました。
  とりわけ、番場の蓮華寺での陶山・小宮山氏の壮絶な最後や、東寺の合戦で死を覚悟した那須五郎に宛てた、与一の名に恥じないように戦えと書かれた母親の手紙の内容に、参加者(7名)も熱心に聞き入っていました。
 那須五郎は下野国の惣領家を継いだ人物ですが、一時期を備中荏原郷で過したとされています。彼は足利尊氏の命に従い、兄弟郎党と敵陣に攻め入り、一歩もひかず討ち死にしたと言われています(大島)
 



平成18年8月19日 13:30 〜 15:00
第38回
「大谷山開墾と明治5年の動向」

 現在ゴルフ場が広がる門田地区の大谷山は、江戸時代から開墾が進められていました。この開発をめぐる門田村の苦労や、川下となる小田郡走出村との折衝の様子をみていきました。
 その後、走出村民の移住が進んだため、明治5年の戸籍編製時には、移住者の記載をめぐり両村がもめました。
 参加者の方々(10名)は、開墾地が走出村との折半になるなど、門田村の払った大きな代償に驚いていました。
 町なかの方からは、大谷山へ行ったことが無いため、土地勘がつかめず残念、との声もありました。(首藤)


平成18年7月15日 13:30 〜15:00
第37回
「高屋宿助郷一件の史料を読む」

 今回は近世編から交通の史料「高屋宿助郷一件新古書類」(池田繁子家文書)【市史V663〜670頁】をとりあげました。6名の参加がありました。
 高屋宿は中国路(山陽道)の宿駅であると同時に、石州大森銀山から運ばれる御用銀の継ぎ立て場としての役割もはたしていました。助郷をもたなかった高屋宿は、支配代官の交代のたびに助郷を願い出、周辺の村々と長年にわたって争ってきました。
 しかし、高屋宿の訴えは聞き入れられることなく、幕末の長州戦争の際に大量の軍勢が通行することになったため、やっと臨時の助郷が認められたのでした。(大島)


平成18年6月17日 13時30分〜15時
第36回
「養蚕・製糸の先駆者たち」

 当日は『市史』第5巻 (近現代編)から、明治初年の養蚕関係の史料を取り上げました【市史X456ページ】。7名の参加がありました。戦前の農家の代表的な副業のひとつである養蚕ー蚕の飼育ーは、とてもデリケートな作業でした。
  明治15年(1882)当時、この地方では春蚕の成長に35,6日かかっていましたが、この年は涼しい日が続いたため、51日を費やしました。それでもこの地方は、製糸家が多く養蚕家が少ないため、繭が高く売れました。
 右上の印刷物は、養蚕・製糸家の先駆者のひとりである西江原村の相田嘉三郎さんの屋敷です。中央の建物が蚕室。南側に桑畑が広がります。(首藤)