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豪古襲来(もうこしゅうらい)に備えて築かれた山城で、室町時代に伊勢氏(いせし)の城となりました。南に旧山陽道と小田川を望み、山頂からは360度の展望が開けます。「北条早雲生誕之地(ほうじょうそうううんせいたんのち)」と巨大な石碑も建っています。
源平屋島(げんぺいやしま)の戦いで平家(へいけ)の扇(おうぎ)の的(まと)を射当てた那須与一の墓とされます。
那須氏の菩提寺(ぼだいじ)・永祥寺(えいしょうじ)の東の山中の墓所。那須一族のものとされます。この一族の墓は、昭和56年10月9日に市指定の文化財となっています。
那須氏一族が移住したとされる西江原町賀山(かやま)にある山城の跡です。
桜渓塾は嘉永4(1851)年、阪谷朗廬(さかたにろうろ)が伯父(おじ)の山鳴大年(やまなりだいねん)の協力を得て若者達の人材育成を目指し、芳井町簗瀬(やなせ)の桜に開いた漢学塾(かんがくじゅく)です。
桜渓塾の朗廬を訪ねて全国各地から漢学者・志士たちが集まりにぎわいました。
重玄寺は嘉吉元(1441)年、芳井町の天神山に開かれた臨済宗(りんざいしゅう)仏通寺派(ぶっつうじは)のお寺です。重玄寺を開いた千畝和尚(せんみょうおしょう)は近衛家(このえけ)のうまれといわれ、天皇家、近衛家ゆかりの宝物が今に伝えられています。
また重玄寺は室町時代に活躍した画僧・雪舟が亡くなった場所と伝えられており、跡地には「雪舟終焉(しゅうえん)」の碑が建てられています。
本丸、二の丸、三の丸と、段重ねのケーキのように彫りがするどく、中世城砦(ちゅうせいじょうさい)の名残(なごり)を色濃くとどめる城址です。また、遠藤周作(えんどうしゅうさく)氏の小説「反逆(はんぎゃく)」の舞台としても有名です。
「子宝なき人、婦人諸病(しょびょう)」に御利益(ごりやく)があり、御神徳(ごしんとく)を受けた人が男根を象徴した焼物を供えるのがならわしとなっている。1683年(天和3年)ごろから信仰が広まり、県内外から御利益を求めて多くの人が訪れます。
奈良時代、名僧(めいそう)・行基(ぎょうき)が井原に立ち寄った際、樋の尻山(ひのしりざん)の妖怪悪鬼(あっき)を観音菩薩(かんのんぼさつ)に祈念(きねん)して退治し、自ら彫った白壇(びゃくだん)の十一面観音像を樋の尻大磐石(だいばんじゃく)の岩陰に安置したことがはじまりとされます。
嫁いらず観音とは、この十一面観音の俗称(ぞくしょう)で、参拝すれば嫁の手をわずらわさずに健康に生涯を全うできるといわれています。
1999年(平成11年)1月には開山1260周年と鉄道井原線開業を記念して、国内最大級の石仏「聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)」が建立(こんりゅう)されました。
那須与一が源平屋島の戦いにおいて扇の的に向かって弓を引く際に破り捨てた片袖を奉納(ほうのう)したとされる稲荷(いなり)です。源平の戦いの後、那須氏が備中荏原里庄の地頭(じとう)として来地後に菩薩寺として創建(そうけん)した永祥寺の境内にあります。
井原市の西部高屋町にあり、天平3年(731年)行基菩薩(ぎょうきぼさつ)により開基(かいき)された、真言宗別格本山「高山寺」です。ここには、国指定重要文化財の不動明王座像(ふどうみょうおうざぞう)、地蔵菩薩立像(じぞうぼさつりゅうぞう)が安置されています。境内(けいだい)には大樹「もっこく」があり、これは天然記念物に指定されています。
その昔3つの流れ星が、この地に落ちたと伝えられる「星尾降神伝説(こうしんでんせつ)」の残る神社です。
また、南に向いていたところ、正面に位置する笠岡で不漁が続き、のちに北向きに建て替えられたという伝説もあります。